今月のJivamukti Yogaのテーマは「チャンス / 機会」
ヨーガ・スートラ第4章 15節 (Jivamukti yoga chant book P.17)
vastu-sāmye citta-bhedāt
tayor vibhaktaḥ panthāḥ
客体は同一であっても、それを受け止める心がさまざまであるから、認識はさまざまに異なるのである。
Vastu = 実際のモノや事柄 / sāmye = 同じである
citta = 心 / bhedāt = 違いから
tayoḥ = これら二つの / vibhaktḥ = 異なる、分離
panthāḥ = 道、
例えばAさんとBさんが「絵」をみたとして・・・そこにある「絵」は同じだけど、AさんとBさんそれぞれに見える(感じる)「絵」は違うということです。
これは「絵」に限らず、すべての事象やモノは本来は変わらないということです。
つまりパタンジャリが言いたいのは・・・人それぞれ違うのは人それぞれの心(つまりあなたの心)がそうしてるってこと。
良くも悪くも自分の見たいように物事を見て、行動(反応)してしまうというこです。
できるだけ冷静に公平に見れるように。今月はそんな実践をできるようにしようと思います。
今月のテーマではDavid Life氏が中国の漢詩を引用しています。
黄鶴樓<崔顥> 昔人已に 白雲に乗じて去り 此の地空しく餘す 黄鶴樓 黄鶴一たび去って 復返らず 白雲千載 空しく悠悠 晴川歴歴たり 漢陽の樹 芳艸萋萋たり 鸚鵡洲 日は暮れて郷關 何れの処處か是なる 煙波江上 人をして憂えしむ 伝説にある仙人はすでに黄色い鶴に乗って飛び去ってしまった。 この地にはただ黄鶴楼だけが空しく残っているだけだ。 飛び去ってしまったあの黄色い鶴は、二度と戻ってはこない。 ただ白い雲だけが、千年を隔てた今もゆったりと浮かんでいるだけである。 晴れ渡った長江の向こうには、漢陽の木々がはっきりと見え、 中州の鸚鵡洲には春の草木がかぐわしく生い茂る。 日が暮れてきた。故郷はどちらの方向だったか。 川面を覆う靄が私の憂いをかきたてる。
この詩自体の理解ははちょっと難しいですが・・・もの悲しい詩と解されています。
ただ黄鶴楼には有名な物語があり、David氏はその物語を今月のテーマの題材として挙げています。
Cui Hao(崔顥/さいこう)は、 飲み屋の店主、仙人、黄色い鶴の有名な物語をもとに詩を書いた。伝えられている所によれば、Xin(辛/シン)と言う飲み屋の店主がいた。ある日店に乞食が現れ、酒をくれとせがんできた。店主は彼の貧相な見た目だけで判断せずに、お金も取らずに酒を与えた。乞食はしばらくの
間、店に通って酒をせびり続けたが、店主は煩わしさも一切見せずに酒を彼に与え続けた。
ある日乞食は店主に言った。「俺は沢山の借りがある。しかしお前に払う金は持っていない。」そう言うと鞄から橘の皮を取り出して、壁に黄色い鶴を描いた。「客が来たら手を叩いてみろ。鶴が踊り出すだろう」と。店主が手拍子をして歌を歌うと、瞬く間に鶴が壁から飛び出して、音楽と共に踊り出した。
店はたちまち踊る鶴がいることで有名になり、多くの人々が珍しい鳥をひと目見ようと訪れた。いつも盛況で店主はとても裕福になった。
ある日、乞食が戻ってきたが未だに貧相な服を着ていた。店主は彼に感謝して、残りの人生をここで豊かに生活するよう申し出た。すると乞食は笑って言った。「俺はそんなことのために戻ってきたのではない」そういうと彼は笛を取り出して演奏し始めた。すると空から雲が降りてきて、鶴は雲の方へ向かっていった。乞食は鶴の背中に乗り、空へと飛び去ってしまった。店主は乞食は仙人だったのだと悟り、感謝の気持ちとして鶴が空へと飛び立ったまさに同じ場所に塔を建てた。そこは黄鶴楼と名付けられた。
Jivamukti Yoga David Life 氏による見解
乞食と黄色い鶴はいったい誰のことなのだろう?両者は共に部分の総和に勝る。鶴は自然界を、そして乞食は人類を象徴しているとも言える。それぞれが個々に”貧しいもの”と”鳥”というありふれた役割であることは間違いないが、それと同等に不思議でかつ神秘的な偉業をも成し遂げている。乞食と鶴はどうして現れたのだろう?両者は共に”Opportunities(チャンス)”を象徴している。乞食は店主に寛大であること、規則に基づいてジャッジすることあるいはしないことを知るチャンスとして現れた。鶴は人間でありながら鳥になる経験をすべくチャンスとして現れた。物語の終盤で彼らが去っていった時、鶴は私達がいずれ自然界へと消えて行くこと、そして乞食は私達がいずれ不思議な力によって消えてしまうことを象徴していた。黄鶴楼は武漢に位置しており、まさにいま世界で起こっている出来事にぴったりと当てはまっている。
私たちはよく寛大でいることは他者だけに利益があって、自身には何のメリットもないと感じてしまうものだ。でも本当は、私達が他者のためにしようと思ったことは何でも我々に同等の影響をもたらしている。他者に対して残酷な態度を取ったら、まず私達が自分自身に対して残酷になる。他者を傷つければ、まず最初に自分自身が傷つけられる。ということは、他者に優しくすることができれば、自分自身に対しても優しくできるということでもある。
(Jivamukti Yoga forcus of the month Juneより抜粋)
自分が人をどう見ているか観察してみて、そしてどんな人にも優しく接する練習ができるといいですね。
ちなみに今月のFocus of the month の翻訳はJivamukti Teacher の一人であるYURIさんです。私も翻訳できるくらい英語理解したいー(*’▽’)
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